ドラマ『半沢直樹』は、昔話『桃太郎』のようにはならないだろう その3
- 2020/10/18
- 20:00
#半沢直樹 #池井戸潤 #福澤克雄 #堺雅人 #香川照之 #上戸彩 #及川光博 #片岡愛之助 #北大路欣也
前回は『ドラマ半沢直樹は、世代間の好みのずれを 再度シンクロナイズさせたことにより 老若男女に愛されるものになった』という事を述べました。
では何故に万人に愛されるのでしょうか。
そのひとつが 主人公 半沢直樹の生き方、あるいは立ち振る舞いに対する 世代を超えた共感と憧れだと私は思います。
中高年も若者も そして女性も男性も「半沢直樹のように、良い者を良いと言い 悪い者は悪いとはっきり言いたい」という気持ちが ドラマ『半沢直樹』を流行させたのだと思うのです。
非常に多くの人が、善を勧め 悪を懲らしめるという勧善懲悪を 実は欲しているのだと思うのです。
心の奥底では勧善懲悪を欲しているのに それが出来ない日々の連続。 だからこそ勧善懲悪をしっかりとする半沢は素適だ。 そういう憧れと共感が、多くの人にあるのだと思うのです。
【 半沢直樹に憧れる気持ち 】
半沢の「やられたらやり返す」と「倍返しだ!」という感情は 今回は置いておいて、まずは半沢の性質について思い出してみたいと思います。
※ ここで言う『性質』とは、『性格』の根底に在るものだとします。正確な日本語の概念ではありませんが、便宜上、『性格が 表面的なもの』『性質は その個人の深層心理に在るもの』といたします。
半沢の性質は、まさに良い事を良いと認知し それを今と将来に自分がしようとすることです。 そのために、悪い事を思ってしまっても それを素直に反省しますし、そういう事をしない日々を過ごそうとします。 それが彼の道徳観です。
彼の性質に在る道徳観と 長年の剣道によって培われた武士道精神が結びついた時『勧善懲悪』という思想が生まれます。
勧善懲悪とは、善を勧め(ススメ)悪を懲らしめる(コラシメル)ということです。 勧善懲悪の精神は、昭和50年ころまで非常に多くの庶民感情に根付いたものでした。 古くは江戸期の芝居で勧善懲悪ものは大変人気。 当時は恋愛ものと化け物ものが演劇のテーマとして人気でしたが、勧善懲悪ものはそれに負けぬ人気があり、例えば『忠臣蔵』にしても庶民に勧善懲悪の精神が在ったからこそ数世紀にも渡って愛された作品なのだと思います。
勧善懲悪の思想が在る人は、自分に厳しい人です。 なにせ 今の世の中、他人をおとしめる機会を自分のチャンスとすれば 比較的容易に出世できる状態だからです。 学校の受験も 就職活動も 事実は自分との戦いであるにも関わらず、他人と競争してしまう人が少なくありません。
しかしそれが過剰になると 他人様を踏み台にする事にも成り得るわけで、そこまで行ってしまうと 懲悪の精神と相反します。 また、人間的に良い人であっても ビジネスでのお付き合いはどうも駄目だという人も居て、そういう人とどう付き合うかも悩むところです。 銀行員である半沢は、そういう現実と勧善懲悪の思想との折り合いを付ける点で、大変な苦労をなさったのだと思います。
・ ・ ・
さて、何時の時代にも悪い人がいます。 もちろん 良い人の方が多いのが事実ですが、だいたい4%位は何時の時代も悪い人です。
逆に 何時の時代でも80%ぐらいは良い人で「あの人の ああいうところが素晴らしい」と第三者に勧められるのが事実です。
※ 80%という数値は パレートの法則を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/パレートの法則
しかし今の時代は、悪い人を率直に「間違っている」と言えないことが多いのです。 twitterなどで批判や非難を毎日のようにしている人であっても 対面では何も懲悪できない人が多いのが事実。 例えば極端な例ですが、走行する新幹線の車内で焼身自殺しようとする男を目の前にして「馬鹿者!」と言う人もいなければ、戦う人もいなかったのが日本の事実でした。
参照:東海道新幹線火災事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/東海道新幹線火災事件
多くの他国ではこんな時に 犯行者が銃を持っていなければですが みんなで袋だたきにするものです。 しかし日本では懲悪しようとしないのです。 逃げるだけです。
多くの日本人は(特に若い人は)「ガソリンタンクとライターを持っていたら、普通の人は逃げるでしょ」と思うようですが、それは現代の日本人に限ってのことです。 昭和時代までの日本人や 現代の世界中 多くの人は、こういうときに戦うのです。それが事実で、今の日本人だけが変なのです。
懲悪したいのに(あるいはすべきなのに)できない風習に戦後の日本は成ってしまい、人として当たり前の気質である懲悪心が封じ込まれたストレスに 多くの日本人は悩まされています。(そのはけ口が ハンドルネームでの批判や非難の投稿しょうか)
一方、良い人の良いところにも気付かない人が増えています。
先ほど何時の時代でも80%は良い人と申し上げましたが、今でも(そして今後も)100人が居れば 80人は良い人なのが事実です。 良い人が大勢居るのが事実です。
しかしそんなに良い人が居るのに、相手を目の前にして「この人のこういうところが素晴らしいなあ」と日々感動できる人は少ないのではないでしょうか。 極一部の収入面で成功した人のつぶやきにはやたらと感動し、全人口の80%の人の良いところに気付きもしない人が多いのではないでしょうか。
もちろん、悪い人は存在しています。 でも良い人であっても成功者ではないから学ぶところなしでは非常に損をしますし、多くの人の心の根底に在る勧善懲悪を表に出すことができなくなります。
「本当はこうであるべきなのだが、結局のところ こうなるのが(こうするのが)現実だよなあ」という間違った思いが、その人の社会生活を虚しくさせます。
コンプライアンスと 人道は違うのを間違えて混同して「(他人を巻き込んでの)焼身自殺をする馬鹿者を鞄で叩きのめしてでも止めれば良かったなぁ」と後から思っても その直後には「でも僕は警官でないので そういうことをする権限はないからなぁ」とか「彼にも彼の悩みがあったのかと考えるのが大切だ」と思うようでは、いつまで経っても幸福には成れません。 法と倫理感は違う場合が多々あるのです。
繰り返しますが、勧善懲悪の懲悪は、世界中の圧倒的に多くの人が分かっていることです。 今でも多くの国でリンチが行われているのは懲悪心の現れでしょう。 (人種差別という利己心がそうさせる場合もありますが)
また、銃でなく刃物を持った男が強盗したり無差別殺害したりする犯罪が成立するのは日本ぐらいなものです。 他国では、女子どもはともかく、男だったら悪人と戦うのが普通です。 だから他国の犯罪者は銃を持って犯行を成功させようとするのです。 ナイフよりも銃の方が多数の男を制して犯行を成せるからです。
・ ・ ・
終戦後の平和主義を皮切りに、日本では一環として平和教育が行われてきました。それは良いことです。
でも、良い薬であっても 長年多量に飲み続けると何らかの副作用があるのと同じように、平和教育も長期に渡って過剰に続くと 悪と戦えない人が増えるという副作用が生じます。
「戦えないという性格に世界人類が皆なったら戦争は無くなる」と主張した人も昭和期には居ましたが、それは不可能なことでした。 日本人だけが戦えない臆病な民族に成ったと判断した中韓北という隣国は、ますます軍事力によって揺さぶりを掛けています。 唯一ロシアのプーチン氏は大変知的なため、日本人の性格でなく性質を知っているので近年は軍事的揺さぶりを減少させていますが、中韓北の指導者は愚かなため 歴史的事実を忘れています。そして性格だけを見て性質を見ようとしません。 そういう愚かな指導者に睨みを利かせるために私は一定レベルの軍事力が必要だと思うのですが、それ以前に 悪は懲らしめなければならないという性質を蘇らせなければなりません。
このような ヒトとして当たり前の性質を性格まで表面化しないと、我々日本人は 幸福に成れないばかりか それこそ「日本沈没Death!」

画像は 大和田暁 元常務取締役のtwitterより抜粋
しかし安心してください。
悪と戦えないという不健全が 多くの日本人の性格に住み着いても、性質には勧善懲悪が頑として在るわけですから、半沢直樹の言動は日本人をワクワクさせるのです。 勧善懲悪の精神は、現代でも多くの日本人の性質に備わっているのです。 あとはそれを育むだけです。
もし 半沢のように議論に長けていないために懲悪できなくとも「良くないものは良くない」という思いを封じ込めないことから精神を健全化したいものです。「間違っているけれど 上司の言うことだから良い事としなければなぁ」と思っているとそれは習慣となり「上司の言うことは全て正しい」という変な大人になってしまいますし、上の人が必ず正しいという反応が根付くと、ひいては それこそがプロパガンダの餌食になります。
戦うことの出来ない人(特に男)ばかりになった国家は 残っていません。戦争が好きな国も 戦争をできる用意があるけれどしない国も残っていますが、戦えない男ばかりの国は世界で唯一日本です。
「それで70年以上日本は成立したよ」と言う人もいるでしょう。でもそれはアメリカ軍の傘の下だったからです。 そして昭和世代の日本人には勧善懲悪をする自分であろうとする人がまだ残っていたからです。
(あと30年も経てば、私のような昭和世代は全員老いぼれますので、暴漢と戦える男は平成・令和世代だけとなるのを忘れないでください。そしてもう少し焦ってください)
念のために言っておきますが、大切な人を悪人から守るために戦うのと 戦争をするのは 全く別の次元です。 混同したくはないものです。
* * *
半沢直樹が素適と思うのならば、まずは勧善懲悪の思想を持ちたいものです。
この難しい世の中、一生掛けても勧善懲悪を貫くことはできないかもしれません。 しかし例え出来なくとも、性質に根付く倫理感と同じ事をしようとすると 性格と性質がシンクロして ストレスは軽減します。 そして世の中のためにもなるのです。
また、今日、知人に「あなたの こういうところが素晴らしいね」と言えなかったら、素晴らしいところを発見できた事だけでも喜びましょう。そしてチャンスを見つけて伝えられたら良いなと思いたいものです。 そう出来ることで、第三者への勧善が始めて出来るからです。
今日、知人や上司に「あなたは抜本的に間違っている」と言えなかったとしても、間違いは間違いだと思えただけでも「自分は壊れていないのだな」と思いましょう。 そしてその事について客観視してみれば、場合によっては自分が間違っていたと気付くこともありますし、客観視することによって感情的にならずに相手に伝えることができるものです。
「半沢直樹、面白かったね」で終わらずに「半沢直樹のように自分が成りたい」と思うとことから、映画やドラマという受け身の感動を消化し吸収したいものです。
美味しい食べ物であっても ちゃんと消化し吸収しないと、翌日には ただの排泄物となるだけです。 このドラマもしっかり吸収して『心の筋肉』に昇華させたいものですね。
(番組は終わっても この連載はつづく)
前回は『ドラマ半沢直樹は、世代間の好みのずれを 再度シンクロナイズさせたことにより 老若男女に愛されるものになった』という事を述べました。
では何故に万人に愛されるのでしょうか。
そのひとつが 主人公 半沢直樹の生き方、あるいは立ち振る舞いに対する 世代を超えた共感と憧れだと私は思います。
中高年も若者も そして女性も男性も「半沢直樹のように、良い者を良いと言い 悪い者は悪いとはっきり言いたい」という気持ちが ドラマ『半沢直樹』を流行させたのだと思うのです。
非常に多くの人が、善を勧め 悪を懲らしめるという勧善懲悪を 実は欲しているのだと思うのです。
心の奥底では勧善懲悪を欲しているのに それが出来ない日々の連続。 だからこそ勧善懲悪をしっかりとする半沢は素適だ。 そういう憧れと共感が、多くの人にあるのだと思うのです。
【 半沢直樹に憧れる気持ち 】
半沢の「やられたらやり返す」と「倍返しだ!」という感情は 今回は置いておいて、まずは半沢の性質について思い出してみたいと思います。
※ ここで言う『性質』とは、『性格』の根底に在るものだとします。正確な日本語の概念ではありませんが、便宜上、『性格が 表面的なもの』『性質は その個人の深層心理に在るもの』といたします。
半沢の性質は、まさに良い事を良いと認知し それを今と将来に自分がしようとすることです。 そのために、悪い事を思ってしまっても それを素直に反省しますし、そういう事をしない日々を過ごそうとします。 それが彼の道徳観です。
彼の性質に在る道徳観と 長年の剣道によって培われた武士道精神が結びついた時『勧善懲悪』という思想が生まれます。
勧善懲悪とは、善を勧め(ススメ)悪を懲らしめる(コラシメル)ということです。 勧善懲悪の精神は、昭和50年ころまで非常に多くの庶民感情に根付いたものでした。 古くは江戸期の芝居で勧善懲悪ものは大変人気。 当時は恋愛ものと化け物ものが演劇のテーマとして人気でしたが、勧善懲悪ものはそれに負けぬ人気があり、例えば『忠臣蔵』にしても庶民に勧善懲悪の精神が在ったからこそ数世紀にも渡って愛された作品なのだと思います。
勧善懲悪の思想が在る人は、自分に厳しい人です。 なにせ 今の世の中、他人をおとしめる機会を自分のチャンスとすれば 比較的容易に出世できる状態だからです。 学校の受験も 就職活動も 事実は自分との戦いであるにも関わらず、他人と競争してしまう人が少なくありません。
しかしそれが過剰になると 他人様を踏み台にする事にも成り得るわけで、そこまで行ってしまうと 懲悪の精神と相反します。 また、人間的に良い人であっても ビジネスでのお付き合いはどうも駄目だという人も居て、そういう人とどう付き合うかも悩むところです。 銀行員である半沢は、そういう現実と勧善懲悪の思想との折り合いを付ける点で、大変な苦労をなさったのだと思います。
・ ・ ・
さて、何時の時代にも悪い人がいます。 もちろん 良い人の方が多いのが事実ですが、だいたい4%位は何時の時代も悪い人です。
逆に 何時の時代でも80%ぐらいは良い人で「あの人の ああいうところが素晴らしい」と第三者に勧められるのが事実です。
※ 80%という数値は パレートの法則を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/パレートの法則
しかし今の時代は、悪い人を率直に「間違っている」と言えないことが多いのです。 twitterなどで批判や非難を毎日のようにしている人であっても 対面では何も懲悪できない人が多いのが事実。 例えば極端な例ですが、走行する新幹線の車内で焼身自殺しようとする男を目の前にして「馬鹿者!」と言う人もいなければ、戦う人もいなかったのが日本の事実でした。
参照:東海道新幹線火災事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/東海道新幹線火災事件
多くの他国ではこんな時に 犯行者が銃を持っていなければですが みんなで袋だたきにするものです。 しかし日本では懲悪しようとしないのです。 逃げるだけです。
多くの日本人は(特に若い人は)「ガソリンタンクとライターを持っていたら、普通の人は逃げるでしょ」と思うようですが、それは現代の日本人に限ってのことです。 昭和時代までの日本人や 現代の世界中 多くの人は、こういうときに戦うのです。それが事実で、今の日本人だけが変なのです。
懲悪したいのに(あるいはすべきなのに)できない風習に戦後の日本は成ってしまい、人として当たり前の気質である懲悪心が封じ込まれたストレスに 多くの日本人は悩まされています。(そのはけ口が ハンドルネームでの批判や非難の投稿しょうか)
一方、良い人の良いところにも気付かない人が増えています。
先ほど何時の時代でも80%は良い人と申し上げましたが、今でも(そして今後も)100人が居れば 80人は良い人なのが事実です。 良い人が大勢居るのが事実です。
しかしそんなに良い人が居るのに、相手を目の前にして「この人のこういうところが素晴らしいなあ」と日々感動できる人は少ないのではないでしょうか。 極一部の収入面で成功した人のつぶやきにはやたらと感動し、全人口の80%の人の良いところに気付きもしない人が多いのではないでしょうか。
もちろん、悪い人は存在しています。 でも良い人であっても成功者ではないから学ぶところなしでは非常に損をしますし、多くの人の心の根底に在る勧善懲悪を表に出すことができなくなります。
「本当はこうであるべきなのだが、結局のところ こうなるのが(こうするのが)現実だよなあ」という間違った思いが、その人の社会生活を虚しくさせます。
コンプライアンスと 人道は違うのを間違えて混同して「(他人を巻き込んでの)焼身自殺をする馬鹿者を鞄で叩きのめしてでも止めれば良かったなぁ」と後から思っても その直後には「でも僕は警官でないので そういうことをする権限はないからなぁ」とか「彼にも彼の悩みがあったのかと考えるのが大切だ」と思うようでは、いつまで経っても幸福には成れません。 法と倫理感は違う場合が多々あるのです。
繰り返しますが、勧善懲悪の懲悪は、世界中の圧倒的に多くの人が分かっていることです。 今でも多くの国でリンチが行われているのは懲悪心の現れでしょう。 (人種差別という利己心がそうさせる場合もありますが)
また、銃でなく刃物を持った男が強盗したり無差別殺害したりする犯罪が成立するのは日本ぐらいなものです。 他国では、女子どもはともかく、男だったら悪人と戦うのが普通です。 だから他国の犯罪者は銃を持って犯行を成功させようとするのです。 ナイフよりも銃の方が多数の男を制して犯行を成せるからです。
・ ・ ・
終戦後の平和主義を皮切りに、日本では一環として平和教育が行われてきました。それは良いことです。
でも、良い薬であっても 長年多量に飲み続けると何らかの副作用があるのと同じように、平和教育も長期に渡って過剰に続くと 悪と戦えない人が増えるという副作用が生じます。
「戦えないという性格に世界人類が皆なったら戦争は無くなる」と主張した人も昭和期には居ましたが、それは不可能なことでした。 日本人だけが戦えない臆病な民族に成ったと判断した中韓北という隣国は、ますます軍事力によって揺さぶりを掛けています。 唯一ロシアのプーチン氏は大変知的なため、日本人の性格でなく性質を知っているので近年は軍事的揺さぶりを減少させていますが、中韓北の指導者は愚かなため 歴史的事実を忘れています。そして性格だけを見て性質を見ようとしません。 そういう愚かな指導者に睨みを利かせるために私は一定レベルの軍事力が必要だと思うのですが、それ以前に 悪は懲らしめなければならないという性質を蘇らせなければなりません。
このような ヒトとして当たり前の性質を性格まで表面化しないと、我々日本人は 幸福に成れないばかりか それこそ「日本沈没Death!」

画像は 大和田暁 元常務取締役のtwitterより抜粋
しかし安心してください。
悪と戦えないという不健全が 多くの日本人の性格に住み着いても、性質には勧善懲悪が頑として在るわけですから、半沢直樹の言動は日本人をワクワクさせるのです。 勧善懲悪の精神は、現代でも多くの日本人の性質に備わっているのです。 あとはそれを育むだけです。
もし 半沢のように議論に長けていないために懲悪できなくとも「良くないものは良くない」という思いを封じ込めないことから精神を健全化したいものです。「間違っているけれど 上司の言うことだから良い事としなければなぁ」と思っているとそれは習慣となり「上司の言うことは全て正しい」という変な大人になってしまいますし、上の人が必ず正しいという反応が根付くと、ひいては それこそがプロパガンダの餌食になります。
戦うことの出来ない人(特に男)ばかりになった国家は 残っていません。戦争が好きな国も 戦争をできる用意があるけれどしない国も残っていますが、戦えない男ばかりの国は世界で唯一日本です。
「それで70年以上日本は成立したよ」と言う人もいるでしょう。でもそれはアメリカ軍の傘の下だったからです。 そして昭和世代の日本人には勧善懲悪をする自分であろうとする人がまだ残っていたからです。
(あと30年も経てば、私のような昭和世代は全員老いぼれますので、暴漢と戦える男は平成・令和世代だけとなるのを忘れないでください。そしてもう少し焦ってください)
念のために言っておきますが、大切な人を悪人から守るために戦うのと 戦争をするのは 全く別の次元です。 混同したくはないものです。
* * *
半沢直樹が素適と思うのならば、まずは勧善懲悪の思想を持ちたいものです。
この難しい世の中、一生掛けても勧善懲悪を貫くことはできないかもしれません。 しかし例え出来なくとも、性質に根付く倫理感と同じ事をしようとすると 性格と性質がシンクロして ストレスは軽減します。 そして世の中のためにもなるのです。
また、今日、知人に「あなたの こういうところが素晴らしいね」と言えなかったら、素晴らしいところを発見できた事だけでも喜びましょう。そしてチャンスを見つけて伝えられたら良いなと思いたいものです。 そう出来ることで、第三者への勧善が始めて出来るからです。
今日、知人や上司に「あなたは抜本的に間違っている」と言えなかったとしても、間違いは間違いだと思えただけでも「自分は壊れていないのだな」と思いましょう。 そしてその事について客観視してみれば、場合によっては自分が間違っていたと気付くこともありますし、客観視することによって感情的にならずに相手に伝えることができるものです。
「半沢直樹、面白かったね」で終わらずに「半沢直樹のように自分が成りたい」と思うとことから、映画やドラマという受け身の感動を消化し吸収したいものです。
美味しい食べ物であっても ちゃんと消化し吸収しないと、翌日には ただの排泄物となるだけです。 このドラマもしっかり吸収して『心の筋肉』に昇華させたいものですね。
(番組は終わっても この連載はつづく)
大切なあなたが 幸せでありますように。
相談屋さん カフェカウンセリング 横尾けいすけ
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