人はどう死ぬべきか 第二章『病死と事故死』
- 2021/07/11
- 17:00
# 死生観 # 新型コロナウイルス # ワクチン副反応 # 感染症
『人はどう死ぬべきか』の 第一章で「どういう要因での死が、人の在るべき姿か」と問いかけました。いかが思われるでしょうか。
* * *
冒頭から余談ですが、人にとっては、死は悲しいものであり 出来るならば避けたいものです。
(“人にとっては”と言うのは、人間以外の全ての動物は 死を悲しみません。 別れを惜しむ様子を見せる動物はいますが、悲しむという感情は人間だけです)
しかし、死を避けるのは不可能です。 ヒトは何時かは絶対に死亡します。 早かれ遅かれですが、誕生したその日から 死は万人に平等に約束されています。 だからこそ「どういう要因での死が、在るべきなのか」を人は考えなければならないのだと思うのです。
もちろん、毎日、死を意識して生きるべきとは申し上げませんが、人生の大切な選択があるときや あるいは楽しい誕生会が終わった晩などに、「自分は」ではなく「人は」どういう要因で死すべきかを思考しても良いのではないでしょうか。
そう、私は「あなたはどういう死に方をしたいですか」と聞いているのではありません。「人はどう死ぬのがあるべき姿か」と問いかけているのです。
* * *
閑話休題。今回は『病死』と『事故死』を取り上げたいと思います。
[ 病死とは 事故死とは ]
病死とは、文字通り 病で死ぬことです。 近年あまり使われなくなった老衰死の概念も『多臓器不全により恒常性の維持・生命活動の維持ができなくなることが原因での死』ですので、広い意味では 病死に含めて良いのだと思います。
事故死も文字通りで、事故での死です。 正確には、変死や不慮の死と言います。 日本での事故死は多い順番から、交通事故、転倒・転落、溺死および溺水、窒息、煙および火災、そして中毒です。
中毒が事故死に分類されていることに疑問を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、中毒は食中毒だけではありませんし、病気に分類されがちな食中毒も 多くの四つ脚動物が 臭みなどでそれを食するのを避ける能力があるので、一応事故死の一種です。 ヒトだけが食中毒を避ける潜在能力も退化しているのです。
[ 病死と事故死の比較 ]
古来より、病死も事故死も同様に無念であるとされていますが、私は病死の方が自然であると思います。 全ての死因と比較すれば、病死は人生の成功だとも思います。
・ ・ ・
ヒト以外の四つ脚動物には、捕食動物に食われる死が多々あります。 アフリカのケニアなどで シマウマがライオンに食われて死ぬ割合がどれだけなのかは知りませんが、同じ群れの仲間が殺害されるのは3日に1度くらいでしょうか。いや もっと多発しているかもしれません。
ヒトも元々は捕食される動物でした。 大昔のヒョウの消化器から人骨が発見されている事実があります。 槍を持ってマンモスを数日間追いかけている間に、少なくないヒトが木上のヒョウに襲われたのでしょう。 もともと、ヒトは走る能力も腕力もまったく劣っているので、捕食動物にとっては容易に捕らえられる生き物です。 絶滅しなかったのが不思議なくらいです。
ヒトもシマウマも 多くの動物がそうですが、捕食されない一生というのは、成功なのかもしれません。 あるいはラッキーなのかもしれません。 そして、捕食されない一生、つまり成功した一生の最期にあるのは、結局、病死ということになります。
・ ・ ・
残念なことですが、近年事故死で一番多い交通事故はなかなか激減しません。 減らないでなく激減しないと言うのは、交通事故がこの世に発生したのは100年くらい前からで、それまでは無かったものだからです。 100年前まで無かったものが、また無くなってくれないかという願いもあり、交通事故死の激減を望んでいます。
交通事故は戦後に急増したまま、平成期に多い数値で発生し続け、令和期の今も(あるいはコロナ騒ぎでの自粛が要因で 交通量が少なくなった今も)顕著に減っていません。
原始人の頃は交通事故などありませんでした。 車も飛行機もない時代なので当たり前です。 それが車が普及された頃から発生し始め、毎年多数が事故死しています。 自動車文化が発展したお陰で今の便利さがありますが、同時に事故死者もそれ以来、ゼロだったことはないのです。
・ ・ ・
このように多発している事故死の特徴は、気持ちの準備がまったく出来ないことです。
病死の場合、当人も近親者も気持ちの準備をする間があるかもしれません。
でも、事故死ではそれが不可能です。
交通事故も転落も火災もそして中毒も 必ず突然訪れます。 昨日まで元気だった人が、あるいは昨日 普通に「また明日ね」と別れた人が、突然亡くなってしまうのが事故死です。
人としてというよりも 動物として自然である病死。
対して、事故死は 大昔からヒョウに食われたり、崖から転落したり、練炭中毒したり、そして交通事故だったり、不自然な事であり 無念な事だと感じないでしょうか。
ヒトという一動物として、病死こそが「寿命が尽きた」ことになるのではないでしょうか。
事故は、可能な限り避けるよう工夫するのが大切です。目標は事故ゼロです。 そして事故ゼロは可能です。
病死しないことは不可能で、事故ゼロは可能。だったら 事故ゼロを工夫すべきです。そして、避けられない病死を過剰に恐れないことです。
病死は、皆に平等に訪れます。過剰に恐れず、内心 腹を決めて 精一杯の良い人生を送りたいもの。
「人はどういう要因で死すべきか」の答えが「病死である」であっても 私は良いのだと思います。
(つづく)
『人はどう死ぬべきか』の 第一章で「どういう要因での死が、人の在るべき姿か」と問いかけました。いかが思われるでしょうか。
* * *
冒頭から余談ですが、人にとっては、死は悲しいものであり 出来るならば避けたいものです。
(“人にとっては”と言うのは、人間以外の全ての動物は 死を悲しみません。 別れを惜しむ様子を見せる動物はいますが、悲しむという感情は人間だけです)
しかし、死を避けるのは不可能です。 ヒトは何時かは絶対に死亡します。 早かれ遅かれですが、誕生したその日から 死は万人に平等に約束されています。 だからこそ「どういう要因での死が、在るべきなのか」を人は考えなければならないのだと思うのです。
もちろん、毎日、死を意識して生きるべきとは申し上げませんが、人生の大切な選択があるときや あるいは楽しい誕生会が終わった晩などに、「自分は」ではなく「人は」どういう要因で死すべきかを思考しても良いのではないでしょうか。
そう、私は「あなたはどういう死に方をしたいですか」と聞いているのではありません。「人はどう死ぬのがあるべき姿か」と問いかけているのです。
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閑話休題。今回は『病死』と『事故死』を取り上げたいと思います。
[ 病死とは 事故死とは ]
病死とは、文字通り 病で死ぬことです。 近年あまり使われなくなった老衰死の概念も『多臓器不全により恒常性の維持・生命活動の維持ができなくなることが原因での死』ですので、広い意味では 病死に含めて良いのだと思います。
事故死も文字通りで、事故での死です。 正確には、変死や不慮の死と言います。 日本での事故死は多い順番から、交通事故、転倒・転落、溺死および溺水、窒息、煙および火災、そして中毒です。
中毒が事故死に分類されていることに疑問を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、中毒は食中毒だけではありませんし、病気に分類されがちな食中毒も 多くの四つ脚動物が 臭みなどでそれを食するのを避ける能力があるので、一応事故死の一種です。 ヒトだけが食中毒を避ける潜在能力も退化しているのです。
[ 病死と事故死の比較 ]
古来より、病死も事故死も同様に無念であるとされていますが、私は病死の方が自然であると思います。 全ての死因と比較すれば、病死は人生の成功だとも思います。
・ ・ ・
ヒト以外の四つ脚動物には、捕食動物に食われる死が多々あります。 アフリカのケニアなどで シマウマがライオンに食われて死ぬ割合がどれだけなのかは知りませんが、同じ群れの仲間が殺害されるのは3日に1度くらいでしょうか。いや もっと多発しているかもしれません。
ヒトも元々は捕食される動物でした。 大昔のヒョウの消化器から人骨が発見されている事実があります。 槍を持ってマンモスを数日間追いかけている間に、少なくないヒトが木上のヒョウに襲われたのでしょう。 もともと、ヒトは走る能力も腕力もまったく劣っているので、捕食動物にとっては容易に捕らえられる生き物です。 絶滅しなかったのが不思議なくらいです。
ヒトもシマウマも 多くの動物がそうですが、捕食されない一生というのは、成功なのかもしれません。 あるいはラッキーなのかもしれません。 そして、捕食されない一生、つまり成功した一生の最期にあるのは、結局、病死ということになります。
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残念なことですが、近年事故死で一番多い交通事故はなかなか激減しません。 減らないでなく激減しないと言うのは、交通事故がこの世に発生したのは100年くらい前からで、それまでは無かったものだからです。 100年前まで無かったものが、また無くなってくれないかという願いもあり、交通事故死の激減を望んでいます。
交通事故は戦後に急増したまま、平成期に多い数値で発生し続け、令和期の今も(あるいはコロナ騒ぎでの自粛が要因で 交通量が少なくなった今も)顕著に減っていません。
原始人の頃は交通事故などありませんでした。 車も飛行機もない時代なので当たり前です。 それが車が普及された頃から発生し始め、毎年多数が事故死しています。 自動車文化が発展したお陰で今の便利さがありますが、同時に事故死者もそれ以来、ゼロだったことはないのです。
・ ・ ・
このように多発している事故死の特徴は、気持ちの準備がまったく出来ないことです。
病死の場合、当人も近親者も気持ちの準備をする間があるかもしれません。
でも、事故死ではそれが不可能です。
交通事故も転落も火災もそして中毒も 必ず突然訪れます。 昨日まで元気だった人が、あるいは昨日 普通に「また明日ね」と別れた人が、突然亡くなってしまうのが事故死です。
人としてというよりも 動物として自然である病死。
対して、事故死は 大昔からヒョウに食われたり、崖から転落したり、練炭中毒したり、そして交通事故だったり、不自然な事であり 無念な事だと感じないでしょうか。
ヒトという一動物として、病死こそが「寿命が尽きた」ことになるのではないでしょうか。
事故は、可能な限り避けるよう工夫するのが大切です。目標は事故ゼロです。 そして事故ゼロは可能です。
病死しないことは不可能で、事故ゼロは可能。だったら 事故ゼロを工夫すべきです。そして、避けられない病死を過剰に恐れないことです。
病死は、皆に平等に訪れます。過剰に恐れず、内心 腹を決めて 精一杯の良い人生を送りたいもの。
「人はどういう要因で死すべきか」の答えが「病死である」であっても 私は良いのだと思います。
(つづく)
大切なあなたが 幸せでありますように。
相談屋さん カフェカウンセリング 横尾けいすけ
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